研究 / Research
情報学プリンシプル研究系
研究紹介
これまでの研究の背景
私はこれまで量子情報の研究をしてきました。研究分野の名前に「情報」とつくのですが、物理学の分野としても扱われます。私自身は大学の学部時代は物理学を専攻していました。入学当初は物理学と情報学は別物だと思っていたのですが、学部時代の後半に、両者が実は密接に関係している、しかも最新の物理学がこれまでの情報処理を革新する可能性があることを知り、量子情報の研究を始めました。
情報学と物理学は独立した分野なのですが、あらゆる情報処理は、なんらかの情報処理機器を操作して実現しています。すべての情報処理機器は実在する物理系なので、宇宙の万物と同じく物理法則に従います。ここで情報学と物理学がつながります。
物理法則は未解明な部分も多いのですが、我々人類が知る最も正確な物理学理論は量子力学と呼ばれています。一方で、量子力学が発見される前の世界観で構築されている物理学を総じて「古典物理学」と呼びます。量子情報という研究分野が誕生した一つの契機は、情報学が想定している物理法則が、古典物理学に限定されていることにあります。
もちろん、古典物理学を想定していても、現在の情報学は十分に成立しています。しかし、量子力学で許容される可能性を情報処理に本当に最大限活用できたとすると、いまの技術の延長線上では到底不可能な情報処理が実現できることが分かってきました。従来のコンピュータと区別するために、そう言う新しい情報処理を可能にする機械を「量子コンピュータ」と呼ぶことにしています。
最近はメディアでも量子コンピュータが特集されることも増えてきいるので、目にされた方も多いかと思います。もしかすると、量子コンピュータは何か「特別な機械」の様に聞こえるかもしれません。でも、量子コンピュータの厳密な定義はないので、「量子力学の法則に従うコンピュータ」ぐらいの広い意味で使っても間違っているとは言えません。その発想でいくと、現代の物理学では自然界に存在するあらゆるモノは量子力学に従うとされているので、既存のコンピュータも量子コンピュータになります。「量子コンピュータを作成した!」と主張しても間違っているとは言えません。ある意味で、量子コンピュータはすでに存在しているのです。
ただ、「いまのコンピュータは、量子力学のポテンシャル(つまり物理法則で許容される可能性)を最大限に生かし切れていない。本来はもっとすごい情報処理能力を秘めているのだ」と、思っている人たちがいます(私はその一人です)。ここでは、そういう能力を持つ機械に限定して「量子コンピュータ」と呼ぶことにします。
さて、「量子コンピュータは物理法則で許容されている」と主張する一方で、まだ実現されていないと主張します。じつは、我々が物理法則と認識しているものは、すべて過去の実験からの類推です。過去の実験の条件から外れたところでは、物理法則に関する我々の理解が間違っている可能性があります。量子コンピュータはそう言う未知の領域にあるのです。
それでは、量子コンピュータが完成したとして、その秘めたるポテンシャルはどこに潜んでいるのでしょうか?その答えはまだ分かっていません。また、量子コンピュータはゲート式とかアニーリング式とか色々提案されていますが、特殊な計算問題への適用例以外では、従来の情報処理を超える方法が分かっていません。
私の過去の研究テーマ1:分散型量子情報処理環境における量子操作の量子性
とは言え、古典物理学でできる範囲のことをやっていても量子情報的な進歩はないでしょうから、古典物理学にはない、量子力学特有の性質を使う必要があります。量子情報が分野として開始する前から、もともと物理学の分野では、古典物理学と量子力学の差に着目した研究はありました(「量子力学基礎論」と呼ばれていたりします)。しかし、その差が情報処理に与える影響については量子情報が始まってからです。むしろ、その影響があり得ることに気付いたから量子情報が始まったと言えるかもしれません。
古典物理学と量子力学の差が確実に現れるのが、複数の物理系が空間的に離れている状況です。私はまず、このような状況下で行う量子情報処理、通称「分散型量子情報処理」を研究対象としました。また、量子情報処理はあらゆる情報処理と同じく、自然界に存在するモノ(物理系)をうまく操作することで実現するはずですから、「量子力学に従う物理系を操作する技術」とそれに関連する物理法則を題材としました。これらの技術は、総じて「量子操作」と呼ばれています。
分散型量子情報処理は複数の情報処理機器がネットワークでつながっているような状況を想定しています。各情報処理機器は、基本的には独立しており、いつどの操作を実行するかは、情報処理機器が個別に適宜決定します。また、必要があれば互いに情報をネットワークを介してやりとりしていきます。大学院時代は、こういう分散環境において、量子性を発揮する量子操作を研究していました。その結果、分散環境下でそれまで知られていなかった量子操作の量子性を発見することができました。
私の過去の研究テーマ2:未知な量子操作を組み合わせて実現可能な写像とその実現方法へ
分散型量子情報処理で想定されるのが、それぞれの情報処理機器がネットワーク上のほかの情報処理機器の状態やそれまで実行した操作をすべて把握するのが困難になることです。すでに、既存の分散型情報処理では起きている現象です。量子情報処理でも同様のことが生じることが想定されます。そこで、こう言う、一部を完全に把握できない状況下で実行できる量子操作とはどう言うものなのかを研究対象としました。
量子操作について簡単に説明します。量子力学においては、あらゆる物理系は、状態が時々刻々と変化しています。「物理系が時間発展している」と言ったりします。物理系があれば、それ独自の時間発展の規則が一つある、と考えます。物理系が置かれている条件を変えてやれば時間発展の規則も変化します。量子操作とは、ようするに物理系の条件を適切に制御することで時間発展の規則を制御する技術です。
物理学で言うところの時間発展と「物の状態の変化」というのはほぼ同じことを指します。物の状態が変化することは日常でも良くあることなので、日常感覚で量子力学の時間発展をイメージしたくなるのですが、実態はだいぶ異なります。分散型量子情報処理で想定されるように、物理系が置かれている条件が完全に分からないとき、時間発展の規則に未知な部分が残ります。古典物理学では、物理系の状態がどう時間発展するかを観測することで、時間発展の規則をすべて特定することが原理的には許されていますが、量子力学では、この方法は使えません。
例として、机の上に箱があり、箱の中に矢印があると思ってください。箱のふたは閉まっていて中は見えません。この箱が回転すると箱の中の矢印は、箱の回転と合わせて一緒に回転します。箱の回転速度が矢印の回転速度になり、矢印の方向が変化する、すなわち時間発展しています。ふたを閉める前に、箱の中に自分で矢印を入れたならば、ふたを閉めた後でも矢印の方向は分かります。では、他人が矢印を入れて、しかもその方向を教えてくれなかったらどうでしょうか?
そこで、矢印の方向を知るために一度ふたを開けて中を確認してみます。すると、その瞬間の矢印の方向は分かるのですが、量子力学の世界では、ふたを開けるという行為が矢印の本来の時間発展を変えてしまった可能性があります。これはふたの開け方が雑だからではありません。どんなに注意しても、どちらを向いているか分からない矢印の方向を確実に知る方法は存在しません。しかも、実験で確認できる範囲では、本当にそう結論せざるを得なくなっています。
そもそも「量子操作を使って情報処理を実行する」とはどういうことなのでしょうか?まず、「実現したい情報処理」を「実行可能な量子操作の組み合わせ」に落とし込む必要があります。このとき数学の「写像」という概念を導入すると量子操作と情報処理の共通点が見えてきます。写像を理解するには、数学で言うところの「集合」を理解しないといけないのですが、簡単に言うと写像とは「モノの集まり」です。写像とは、ある集合の構成要素をべつの集合の構成要素に対応させる規則です。情報処理も量子操作も、何らかの写像を「実行している」と解釈できます。
そこでまず、実現したい情報処理に対応する写像を考えます。そうなると、次は、その写像をどうやって量子操作で実現するか、という話になります。ところが、「情報処理に出てきそうな写像」を「量子操作の自然な組み合わせ」で実現するのは、量子力学の原理上不可能という場合が多いのです。特に、分散型量子情報処理のように、組み合わせるのに使う量子操作が完全には特定できない場合は、その傾向が顕著に出ます。そこで、我々は「自然な組み合わせ」は諦めて、ある程度の妥協を許すことで、実現可能な写像を増やす方法を研究してきました。
たとえば、「ユニタリ写像の高階写像」という量子コンピュータのプログラムを考えるうえで重要な写像を研究した結果、十分妥当な量子操作の組み合わせでほぼ100%の成功確率で実現可能な方法を発見しました。しかも、この新手法は、分散型量子情報処理などで想定される、未知な量子操作が実行される状況下でも実現可能なことが分かりました。
将来に向かって
これまで量子力学が情報処理にもたらしうる可能性を探求してきましたが、これからの量子情報は、量子情報の【原理】が重要になってくると考えています。ここで言う原理とは、「何か新しいことを始めるときに必ず起点となるところ。そこを通らずしては考えることすらできないこと。」になるはずものです。量子情報は物理学と情報学から派生した分野であり、物理学と情報学それぞれに原理はあります。ところが、量子情報固有の原理と言うものは確立されていないと私は思っています。
そもそも分野の名前からして「量子情報【学】」ではなく、単に「量子情報」と呼ばれています。これは英語にしても同じで、前者は quantum information、後者は informatics です。やはり「学」を連想する部分が入っていないのです。これは量子情報【学】の原理が確立していないことと関係があると思っています。
量子情報の原理を考えるために、現在の情報学と物理学の関係を私なりに整理してみます。まず、情報はそれ自体、情報処理機器という何らかの物理系で保持され、情報の処理はその物理系への操作を通じて実行されることを前提としています。すべての物理系は物理法則に従うゆえに、情報処理も物理法則に拘束されるのですが、情報学では、個々の情報の担い手や情報処理機器の物理的振る舞いを逐一解析する必要はなく、情報処理は、個々の物理系とは独立したものとして議論されます。このように、情報学が個々の物理系とは独立に議論されつつ、何らかの物理系に還元できるのは、情報処理機器を抽象化した「情報処理モデル」が定式化されており、それが物理法則と整合するからです。
現在の情報学における標準的な情報処理モデルは、すべて既存の情報処理機器で実現されているか、実現され得るものです。また、標準情報処理モデルに基づいて見積もられた計算コストや通信量などが、実際に処理を実行するために必要なコストと十分対応しています。そのため、情報処理モデルが情報学における原理を与えていて、ここを起点に議論が開始されます。
しかし、現在の量子情報は、情報学と違って、物理学と独立するために必要な量子情報処理モデルが存在しません。量子情報処理モデルの妥当性は、実用的な課題を解決する情報処理に結実して初めて保証されます。もちろん、現在でも、「量子回路モデル」と呼ばれる、量子情報処理の標準モデルとされるものはあります。それ自体は、量子力学の法則と矛盾はしませんが、実用化された量子情報処理を参考にしていません。
量子回路モデルは1990年代には確立されましたが、当時と比較して、現在の量子情報処理機器の実験的理解は大幅に進展しています。それにもかかわらず、量子回路モデルは、ほぼ当時のままなのです。今後も量子情報処理機器の物理法則が一層解明されてくるはずです。その中でも、実用的な情報処理につながるものを特定していくことで、量子情報処理の「本質」を解明することで、量子情報を情報学として本来の意味で確立させていきたいと考えています。